『一人の女性の笑顔』は、世界平和へと繋がる!!
一人の女性が笑顔になると、その人を取り巻く家庭や地域が明るくなる。
家族、地域が明るくなると、学校、社会全体が元気に豊かになる。
私のサロンにいらっしゃるお客様に幸せと笑顔が溢れるよう、
私自身アンテナを張り巡らし、お客様にとって、キレイでお得な情報を発信し、
心地よい風をサロンにいきわたらせて参ります。
美容の下町代表サロンとして、皆さんで笑顔の輪を広めていけたら光栄です。
メナードフェイシャルサロン根岸5丁目店
オーナー
増井 真実子
オーナープロフィール
幼少期
岐阜の小さな町で時計宝石店を営む両親のもとに生まれました。
幼いころからキレイで優しいママが大好きな子供でした。
しかし母は、店を守りながら、生まれてから重い病気だった弟につきっきりでした。
さらに、祖母の急死、介護なども加わり、親の愛情がたっぷり欲しい時に、私は独りぼっち。
そのせいか、小学校低学年の頃まで一切自分の気持ちを話さない無口な子供。
自営業だったので、私が休みの時にも両親は働いており、一緒にちびまる子ちゃんやサザエさんを見たこともないです。
お手伝いさんがいたので、母の手作りの食事もほとんど食べたことがなかったかもしれません。
外食もお客様やメーカーさんと一緒で、話は常に仕事のことでした。
私が健康で生まれてきたから優先順位が下がるのだと思っていたので、母の意識を私に向けたくて、しょっちゅう体調を壊してました(心の病気というものね)。
人の時間は24時間。
限られた時間の中で、私への愛情表現として、母は「交換日記」をしてくれていました。
一緒におやつを食べる時間はなかったけど、
「いつも、忙しくてごめんね。お菓子あるから、学校から帰ったら食べてね。」
と書いてある文字を見ながら、母の愛情を感じながらも悔しい思いで、一人涙ぐみながらお菓子を食べていた記憶があります。
なぜ、私は普通の家に生まれなかったんだろう。
なぜ、私の母さんは普通のお母さんじゃないんだろう。
反抗期だった中学・高校時代
私は、中学から校則が厳しいカトリックの女子校に入りました。
中学の入学時、母はこんなことを言っていました。
「お母さんは近いうちに大きな決断をしなくてはいけない。
お母さんのせいで、真実ちゃんの人生を狂わせたくない。
真実ちゃんにとって大切な時期だからこそ、ちゃんとした学校に行って欲しいの」
その言葉通り、母は父と離婚をしました。
父はスポーツも学業も人一倍できる人で、店の後継ぎとして期待され、責任重大でした。
結婚後、様々なトラブルがあり、お互いちゃんと意思疎通をすることができず、、、
蓋を開けてみたら、多額の借金と家族がバラバラだったという事実だけが残っている状態でした。
私は、そんな両親の状況を分からないふりをしたかった。
中高一貫のメリットとでも言わんばかりに中学三年の夏休みに髪を染め、悪友とつるみ、岐阜の中でも高校生がたむろする場所をよく訪れるようになっていました。
夏休み後、期末試験の成績は急激に落ち、後ろから数える方が早かった。
三者面談の時、担任の先生から
「夏休み、何してたんですか?お母さんがちゃんと見てあげてないから、こんなことになるんじゃないですか?」
と、母が責められ、母が頭を下げてる姿を見ました。
お母さんは何も悪くない、それは頭では理解してる。
私自身何に反抗したいのか、だれに何を訴えたいのか分からなかった。
ただ、母が責められるのは納得いかなかったので、猛勉強をしました。
そしたら、高校進学の際、思いがけず成績優秀なクラスに入ることになってしまった。
勉強をして成績を維持していれば、先生は何も言わなくなることを知りました。
それをいいことに、また自分の居場所を見つけに、高校生が行ってはいけない場所へ行き、必要としてくれる友人とつるむように。
そんな場所に出入りしているわけですから、当たり前のように問題は起こるわけで、殺されそうになることがあったり、学校では謹慎処分になもなりました。
反省文を何十枚も書かされたことから、文章を書くことに抵抗があまりなくなり、国語の成績もアップ 笑
私の暴走を止めようと母は必死でした。
一日に何十回もPHSが鳴り、電話に出ると常に母は怒鳴っていた。
泣きながら私をぶったこともあった。
誰かを傷つけたいわけではなかったのですが、心の矛盾に私自身も付いていけなかった。
私の合宿中、母は自ら命を絶とうとしたことがありました。
たまたま、学校の授業で書いた「母への手紙」が届いたことで一命をとりとめたとか。
どんな状況でも、どんな姿の私でも、母は私を信じ抜いてくれて、
「あなたは、絶対、東京の大学に行きなさい。必ず運命の出会いがあるから。必ず幸せになるから。」
と私を送り出してくれた。
母は、死に物狂いで働き、多額の借金を一人で返済しました。
目立つほどの美貌、波乱万丈な人生、私の母は絶対普通の人ではない。
私の大きな心の爆発を、母は自分の責任だと言っていたけど、これは私の運命。
私は、母の娘で本当に良かったと思うし、人脈が広くて、社交的な母が自慢です。
そんな母のもとで育ったからこそ、
- どんな相手でも理解したい、受け入れたいと思う気持ち
- 悔しさをバネに、負けたくないと思う気持ち
- 女性の人生の奥深さ
という私の人生において主軸となる部分を身につけたのだと思います。
母との思い出のパリ旅行

高校卒業後、初めて母と二人でパリへ行きました。
母娘というより女同士の会話をたくさんしました。
母が恋していることや私の彼氏の話。
セーヌ川を歩きながら、お互いの恋愛観、将来の夢を語り合いました。
一流ブランドが立ち並ぶヴァンドーム広場で、オシャレなパリジェンヌに見とれて、
「必ず、また二人でパリに来よう。
その時は二人で、”女性が輝くこと”をお手伝いできる仕事をしていて、、私たちも輝いてる女性でいたいね。」
と約束をしました。
母の波乱万丈な人生をずっと横で見ていたからこそ、母の恋を応援したい、母の人生を応援したい。
女性が輝くお手伝いをする仕事に就きたいと決意しました。
私の人生を変えた デキちゃった結婚
学生時代は、大学に通いながら、メイク&エステスクールに通い、美容部員のアルバイトをしていました。
楽しかった学生時代も、彼(今の主人)との「できちゃった結婚」から180度変わりました。
大好きな彼から「結婚しよ」って言われたよ・・・
- でも、どうして今?
- どうして私?
- 私の将来は?
自業自得とは言え、涙が止まらない。
つわりで、思うように行動が出来ないから余計に不安ばかりが頭をよぎる。
母に本当のことを打ち明けると、驚き過ぎてその場で倒れそうになってしまっていた。
「どうするか、たくさん悩みなさい。たくさん、たくさん悩みなさい。
それで産もうと決めたのなら、その子は絶対に、真実ちゃんの味方になってくれる子になるから。
絶対、真実ちゃんの人生を助けてくれる子だから。」
その言葉に背中を押され、出産をしました。
世界一周する夢、世界中に友達を作る夢は先延ばしになってしまった。
けれど、私の人生、子供がいるからって諦めない。
早くに出産したことを武器に生き抜いてやると決意。
子育てと仕事、両立させることの葛藤

子育てをしながら、ジュエリーコーディネーター、カラーコーディネーターの資格を取得し、私はジュエリー会社に就職。
華やかなで優雅な宝石に囲まれていることが幸せで、精一杯働きました。
しかし、宝石を買える人は世の中の一部の人に限られます。
もっと多くの人と関わりたいと宝石業界を去り、さらに資格を取得しながら転職を繰り返しました。
30歳になる記念に、何を思ったのか司法書士を目指すことにしたんです 笑
きっと知的でカッコイイ女性に憧れたんでしょう。
完全に、ないものねだり。
しかし、やりたいと思ったことはやらないと気が済まないのが性分。
三年を期限とし、一日も休まず、睡眠時間三時間で勉強をやり切りました。
今では全く記憶にございませんが、民法、商法、憲法、刑法、民事訴訟、不動産登記、商業登記など11科目やり切りましたよ!
毎回の講座では最後まで残って、司法書士の先生に質問攻め。
一年に一度の試験、三度とも失敗。
それはそれは悔しかったです。
未練がましく、その後、企業の法務部に就職しました。
現場に出て、「この世界、マジで私に合ってない!!」と気づくわけです。
遅っ!!(笑)
どこにいても自分らしくない。
せっかく仕事のチャンスを頂いても、子供が熱を出したら仕事を放り投げて駆けつけなければならない。
お迎えの時間までがリミット、とことん仕事に向き合えない。
代わりがきくポジションばかり。
保育園の先生に「ママ、何を焦ってるの?今は子育てに目を向けてあげて」と言われる。
子育てが大切なのは理解しているけど、、、
私の人生でもあるんだよ、と涙が出てくる・・・
- 『私は何のために生きているのか、私の使命を果たせる場所はどこなのか』
- 『社会の役に立ちたい!』
メナードとの出会い

35歳(2015年)の時、「星に学ぶ あなたの香り」というセミナーに出席したのです。
生年月日、生まれた時間、生まれた場所から読み解く私の香り。
私の香りは、ローズ、バイオレット、オレンジフラワー。
その香りを検索したら、たまたまメナードのオーセント オーデパルファムだったのです。

商品を問い合わせることが目的で、メナードのオーナーさんと出会いました。
昔から化粧品やエステが大好きで、同い年の女性に比べたら、多くのお金を美容に投資してきたからこそ、メナードの化粧品とエステの優秀性に納得したものの、そのオーナーさんとの出会いが私の人生を変えるとは思いもしなかった。
そのオーナーさんは、自宅マンションの横の部屋を借りてサロンにしていた。
- 自宅の横が職場?
- 子育てと両立が出来るの?
- メナードのエステスクールが無料?
- 私がオーナーになれるの?
えっ!!そんな夢みたいな仕事があるの!!私が求めてた仕事やん!!
「こんな私でも、店を持てる可能性があるってこと?」
何度聞いたことか。
将来のことを考えると、夜も眠れぬほどの興奮。
肌がキレイになると人生が変わり、笑顔が増える

36歳の時(2016年)、代行店の許可を取得し、念願のサロンをオープンしました。
義母や主人が友達を集めてくれて、サロンの内装は全て手作り。
オープン初日は、義母と義母の友達が手作りの食事を用意してくれて、ワインを提供しました。
一日で100名以上のお客様や友達がお祝いに来てくれました。

自分の身の丈に合わないことに戸惑いばかり。
写真の木のように、強風が吹いたら倒れてしまいそう。

そう、この木は、サロンオープンの時に植えた木。
4年半が経過し、いまでは、じゃーーん。
こんなにたくましい木になりました。
2階のテナントにまでお邪魔してるほどの図々しさ。まるで私みたい。(笑)

私がお客様から学んだことは、
『肌がキレイになると笑顔が増える!笑顔が増えると人生が変わる!』
ということ。
女性の人生を変える、輝いていただける。
そんな大きな仕事をさせていただいて、私はエステセラピストである自分が大好きで、サロンオーナーという仕事に誇りを持っています。
お客様、友達、地域の方々との繋がり、家族、どれが欠けてもお店の継続はあり得ません。
家族だと思っているサロンのエステセラピストたち。
誰が欠けても、メナードフェイシャルサロン根岸5丁目店にはなりません。
母は岐阜で、時計宝石店をたたみ、メナードの仕事をしています。
パリで約束したこと、叶ったのです。
あともう少し、お互い成長して、ちゃんと稼いで、二人でパリに行こう。

下町美人アンバサダー

私は、昔から銀座が大好きで、美しいもの、美しい人に常に「憧れ」を持っていました。
シティの魅力は「憧れ」られる存在であること。
でもね、下町に住んでいると、常に凛とした自分やカッコイイ自分でいなくていいんだってホッとするんです。
旨くて安い居酒屋がたくさんあって、カッコつけない気さくな人や人情溢れる人が多いから、私自身も素直になれる。
都心へのアクセスがしやすいわりに、スーパーが多く物価が安いって、現実的にも大きなメリット。
そんな下町の魅力にひかれて、下町に生活の基盤をおいている美人たち。
下町美人とは、「前抜きで情熱的な人情溢れる人柄」と「貪欲におしゃれと美容を楽しむ」を兼ね備え、全力で人生を楽しんでいる女性。
自転車でふらっと行ける場所に「自分が素のままで居られて、こんなお店あったらいいな♡」と感じていただけるような、下町のとっておきなお店や前向きで情熱的な人情溢れる女性をこちらのコラムで紹介していきます。
女性が笑顔だと、その女性を取り囲む家族、地域、社会が明るくなっていきます。
女性の笑顔こそが、世界の平和と繋がっていく。
将来は、この下町美人コラムが世界のダウンタウンの女性たちの輝く笑顔をピックアップしていけるように成長していきます。
所有資格など
- エステセラピスト
- ビューティアドバイザー
- 下町美人アンバサダー
- マヤ暦アドバイザー
- ジュエリーコーディネーター